第13回 生存戦略としての利他性アプローチ【利他性マーケティング】

利他性マーケティング
2016/12/28

利他性マーケティング ~第14回 生存戦略としての利他性アプローチ

利他性マーケティング ~第14回 生存戦略としての利他性アプローチ

「利他性マーケティング」とは

利他性とは、自分がコストを負担して他者に利益を与える心理的傾向です。
近年、「振り込め詐欺」「やりがい搾取」など、利他性につけこんだ被害が後をたちません。
このような現象からも分かる通り、ヒトは思わず他者を助けてしまう非合理な側面を持っています。
ヒトの利他的な側面を洞察し、それに適応するマーケティング戦略を立案・ 実行する考え方が「利他性マーケティング」です。

 当コラムの連載が始まってちょうど一年が経ちました。2016年を振り返ってみると、「利他性の理論を消費者行動分析やマーケティングに応用する」という考え方に賛同してくださる方々と出会い、有意義なディスカッションの機会や調査実務においてこの考え方を取り入れていただく多くの機会に恵まれました。皆様には、この場をお借りしお礼申し上げます。クロス・マーケティンググループのシンクタンク「クロスラボ」では、これからもこの利他性の理論を消費者行動・マーケティングに応用する研究を探究していきたいと考えています。今後も引き続きこの問題についてご一緒に考える機会をいただけると幸甚に存じます。

 クロスラボが提唱する「利他性マーケティング」の定義は、「消費者行動における利他性を理解し、それに対応するマーケティング戦略を立案、実行すること」というものです。もう少し端的にいうと、「ヒトの本能的な利他性に働きかける」ことをいいます。その目的はいたって簡単なもので、「自分が生存するため(生存戦略)」です。働きかける相手は、消費者だけでなく、地域社会や従業員などステークホルダー全般を想定していただいても構いません。ここでいう「自分」についてはあなたが所属する企業や何らかの組織を想定してみてください。また、「生存」という言葉を四半期ベースでの「短期」ではなく、もっと長い目でみて生き残る「持続可能」な意味で捉えてみてください。

 今回のコラムでは、こうした利他性マーケティングの定義に立ち返り、利他性の本能的側面について検討し、なぜ「ヒトの本能的な利他性に働きかける」ことが「自分が生存する」ことにつながるのかを解説したいと思います。

 

本能としての利他性

 これまでのコラムでも紹介してきましたが、進化心理学で提唱される「進化論的な心の見方」では、「生物としてのヒトが利他的にふるまうのは、心の進化の過程・環境適応の結果である」と考えます。つまり、利他的にふるまうような心の傾向を持った方が、そうでないよりも生存に有利であったという見方です。

 これには様々な見解がありますが、ここでは集団としての生存について考えてみましょう。個体(個人)ベースで考えれば、利己的にふるまった方が個体にとっての利益は高まります。当然、利他的な他の個体から利益を収奪すればいいからです(フリーライド)。しかしながらそのような利己的な個体だけで占められる集団の生存はどうなるのでしょうか。

 お互いに助け合う集団と全く助け合わない集団が戦争を起こしたなら、また生存するのが厳しい自然環境に集団が置かれたなら、と想像すると、どちらの集団が淘汰されずに生存しやすいのでしょうか。お互いが助け合う集団は結束が固く、チームプレイも円滑にいくと考えられることから、利他性以外の条件が同じならば、お互いに助け合わない集団は敗北するでしょう。つまり、お互いが助け合う利他的な心の性質を持つことが集団としてのヒトの生存を有利にするのです(逆に、利他的な性質を持たない集団は淘汰されます)。ただし、利他性の及ぶ範囲は自分の所属集団内に限られるという点には留意が必要です。

 利他的な性質は状況により作動したりしなかったりしますし、全く他者を助けない「完全なる利己的な個体」も一定数存在しつづけるでしょう。例えば、良心を持たないサイコパス(反社会性人格障害)が25人に1人存在するという推定があります(スタウト 2012)。サイコパス(反社会性人格障害)には、「社会的規範に順応できない、人をだます・操作する、衝動的である・計画性がない、カッとしやすい・攻撃的である、自分や他人の身の安全をまったく考えない、一貫した無責任さ、他の人を傷つけたり虐待したりものを盗んだりしたあとで、良心の呵責を感じない」といった特徴がみられるといいます(同書)。こうした説を踏まえれば、利他性に溢れる集団(生存に有利な集団)を維持するということは、一筋縄ではいかないことが分かります。


 また、心の進化的見方によれば、こうした「利他的であることが生存に有利である」ということは、進化の過程で本能のようにヒトに埋め込まれたメカニズムであると考えられています(もちろん上記のようなサイコパスの存在のように、個体差はありますが)。本能のように埋め込まれた、というのは、利他性や利他的行動は意識をして作動されるのではなく、自動的・非意識的・感情的に作動するものであるという意味です。

 過去の当コラムでも触れましたが、あらゆる物事をいちいち熟慮して処理するならば、膨大な認知的な負担が発生し、日常生活が立ち行かなくなる事態になるでしょう。その意味で、日常生活は自動的に処理される行動によって占められています。また、山で熊に遭遇したような際にいちいち熟慮して対処するならば、命がいくらあっても足りないでしょう。そこに何らかのネガティブな感情が自動的・非意識的に発生し、逃げるという行為が自動的に引き起こされるのです。そして事後的に「自分は怖かったから逃げたのだ」と「意識的」に認識・意味づけをするのです。この「恐怖」のような感情の自動処理は、進化の過程でヒトが身につけた環境適応的な認知メカニズムであるといえます。利他性のような相互協力的行動の作動もそのような文脈で捉えることができます。

 近年、認知科学(cognitive science)の人間観は、合理的な人間観から非合理的な人間観へとシフトしています(c.f. 鈴木 2016)。例えば、行動経済学で指摘されるように、人間は必ずしも合理的に意志決定を行っているわけではありません。多くの意思決定や行為は、その意思決定や行為がなされた後で、事後的に意味づけられることが分かってきています。つまり、「非合理」(自動的・非意識的・感情的)に意思決定や行為が作動し、「合理的」(思考的・意識的)にそれを意味づけるという認知的な流れであり、行為の当事者は、あたかも自分は合理的に判断したのだと錯覚してしまう傾向があるのです。

 進化的な淘汰の結果、つまり環境への適応の結果、利他性が自動的・非意識的・感情的に作動していると考えると、「所詮、人間は利他的ではなく利己的な存在だ」という二元論的な意見(利他vs利己)は一面では正しく、もう一面では物足りない意見といえます。なぜならば、どこまでが意識されたものでどこまでが意識されていないものなのかの境界線が曖昧だからです。

 つまり見返りを目的として行うような意識的・思考的な利他的行動も存在するでしょうが、一方で、自動的・非意識的・感情的な作動でとっさに利他的行動を取ってしまう場合もあるでしょう。前者の場合、本当に見返りが合理的に計算され、本当にその利他的行動が自分にとって得になったと確証できるのでしょうか。また、見返りを求める事前計画は意識的であったかもしれませんが、その意識が他者を助けるというような具体的行為の原因になっているのかどうかは闇の中です。後者の場合、「あの行動は自分のためだった」「あの行動は他者のためだった」と「合理的」に後付で意味づけが加えられます。「自分(相手)のためにやった」という意識的・思考的な解釈・意味づけは「後からやってくる」ものであり、あくまで利他的行動は自動的・非意識的に作動したのです。

 ここに、人間は「利他的か利己的か」という問いよりも、「生存(利己性)の本能と利他性の本能がセットで自動的に駆動する」という「本能」という視点の重要性が浮かび上がってくるのです。以上が「ヒトが本能的に持つ利他性」という視点であり、この視点が「ヒトの本能的な利他性に働きかける」という利他性マーケティングのコンセプトにつながっていきます。

 

販売促進型の利他性アプローチ

 日本市場は現在、グローバル化、テクノロジーの進歩、社会の劣化(経済的格差や中間共同体の崩壊など)、といった様々な現象を背景として、供給が需要を上回る状態がつづいています。とりわけ失われた20年という期間を経て普通の商品を普通に売るという行為がとても困難な作業になったように思われます。デフレ型商品やサービスに消費者が慣らされる中、マーケターが苦労してつくりあげた微細な差異は差異として認識されづらくなりつつあります。そうした環境下において、顧客の持つ「利他性という生存本能」に直接訴えかけるアプローチによって需要を呼び起こすのです。例えが悪いですが、近年拡大する振り込め詐欺事件は、まさに利他性の本能に直接アプローチした事例といえるでしょう。いわば本能へのアプローチを通じて製品コモディティ脱却を狙うわけです。これを販売促進型の利他性アプローチと呼びましょう。

 確かに、身の回りのマーケティング事例を眺めてみると(例えば広告コミュニケーションに関する世界的なコンクールであるカンヌライオンズの受賞事例をざっとチェックするだけでも)、利他性の本能に影響を与えているとみられるソーシャルグッドな事例が多数発見できます。

 しかし、こうしたアプローチは目先の需要を刺激する広義での販売促進にしかなりません。販売促進はもちろん非常に重要ですし利他性マーケティングの重要な機能の一つではありますが、もう少し長期的な視点でみてみましょう。それが、生存戦略としての利他性マーケティングです。生存戦略は、販売促進というよりも、ブランドに関わる問題であるといえます。これを生存戦略型の利他性アプローチと呼びましょう。


生存戦略型の利他性アプローチ

 「ヒトの本能的な利他性に働きかける」ことを通じて「自分が生存する」という、生存戦略型の利他性アプローチを理解いただけるように、ここではロックフェラー家の話を通じて解説したいと思います。

 ロックフェラー家といえば、いわずとしれたアメリカ合衆国の企業家、富豪の家系のことをいいます。デイヴィッド・ロックフェラーの自伝『ロックフェラー回顧録』を読むと、稼いだ富を社会に分配することがいかに自らの持続可能性にとって重要であるかが記されています。

 いわく「儲けるのは簡単だが、それを維持するのは難しい」。つまり、儲けすぎると人の妬みを買う、または国家に睨まれる、という意味で、「儲けた富をばらまく」、という行為が自らの生存にとっていかに重要であるかということが理解できます。巨万の富を保有するロックフェラー家自身が「やりすぎると必ずしっぺ返しがくる」というメカニズムを真に理解した上で、社会貢献に莫大な資金を拠出するという行為に、ヒトが持つ利他性の本能的メカニズムへの適応(働きかけ)と自己の生存戦略があると読み取れるのです。

 つまりこういうことです。生物としてのヒトは協力し合う性質を持つゆえに生存をしてきたために、利他的行動は非常に良いことであると本能で認識します。例えば、困っている人を助ける、という行為を大多数の人は賞賛するでしょう。一方で、自分の利益しか考えない強欲さで絶えずフリーライドしてくる者が増えすぎることはその集団(社会)にとって滅亡を示唆します。したがって、とりわけ「行き過ぎた利己主義」は良くない行動として認識されバッシングの対象となり、行き過ぎた利己主義を実践する者はその社会に存在し続けることが困難となるのです。

 こうした論理に適応・順応し、できるだけ「強欲」「儲け過ぎ」と見られないように社会に富を分配・還元することで、社会からの排斥を回避するのです。このような作業をロックフェラー的にいえば、「儲けるのは簡単だが、それを維持するのは難しい」ということになるのでしょう。どこまでがやり過ぎであり、やり過ぎではないのかという境目の見立てとそれに基づく富の社会への分配のし方が難しいのでしょう。それにより社会における評判生成のされ方が大きく変わってくるのです。

 やや極端な例でしたが、こうしたロックフェラーの事例には、「ヒトが本能的に持っている利他性に働きかける」ことを通じて「自分が生存する」という、利他性マーケティングの生存戦略モデルがあります。利他性マーケティングの生存戦略はしたがって、販売促進戦略ではなく、ブランド戦略であると捉えるべきです。富の分配機能によるブランドへのポジティブな効果の創出は、長期的視点で取り組むことだけでなく、思いつきではない然るべき戦略や哲学を伴って実行されることではじめて実現されるのです。


「1億総貧困化時代」における企業の生存戦略

 ところで、富を分配するという作業が日本企業は苦手である、その一方で西欧の企業はキリスト教の精神がベースにあるので得意である、といった見解をよく耳にしませんか。その真偽はともかくとして、急速に規制改革が進み、農業、医療、教育、介護、電力といったライフラインに関わる非競争的分野だったものも自由競争の対象とされつつある日本市場において、「富を分配する」という利他性マーケティングの生存戦略の視点は、今後とりわけ企業にとって非常に重要なものとなるでしょう。

 自由競争が行き過ぎると、国民の経済的格差を拡大させます。富める者はより富み、中間層は貧困化していくトレンドです。そうした前提に立てば、今後我が国の経済的格差はより拡大し、中間層が薄くなっていくものと考えられます。例えば「1億総貧困化」「1億総疲弊社会」「一億老後崩壊」などという言葉が囁かれていますが笑えない冗談です(雨宮et.al., 2016 ; 藤田2015; 藤田2016)。しかし冗談などではなく、非正規雇用者の増大、自殺者の高止まり、下流老人の台頭、子どもの貧困の拡大と貧困連鎖など、その兆しはより顕在化してきています。

 例えば、日本における子どもの貧困は6人に1人といわれますが、日本財団の試算によれば、子どもの貧困を放置したことによる社会的損失は甚大なものとなるようです。具体的には、大卒が半減・中卒が四倍、非正規社員や無業者が1割増加、一人当たり生涯所得が1600万円減少、一人当たり財政収入が600万円減少、所得が40兆円、財政収入が16兆円失われる、といったシミュレーションがなされています(日本財団子どもの貧困対策チーム2016)。

 

 経済的格差の拡大(貧困の拡大)は、企業が商売をする基盤・舞台である社会そのものを劣化させ、総体的な購買力を低下させていく可能性があります。企業の今ある商品を今までのような頻度・単価では買えなくなる貧困層が拡大するのでそれは当然の帰結であるといえます。

 理想論をいえば、日本市場を一切捨てて海外のみで事業を展開するという企業でもない限りは、企業が商売をする基盤となる日本社会の劣化は由々しき問題であり、したがって儲け過ぎた富を社会に分配し、自らの商売基盤たる社会を整備することに貢献すべきである、ということもいえるでしょう。いわば、養殖をしている魚を釣るだけでなく、養殖のための生簀(いけす)の整備・維持も同時にしていく必要があるという見方です。小さな政府、つまり国による市場への介入を最小限に減らし、自由な市場競争にすべてを任せるというトレンドである限り、国は例えていうところの生簀(いけす)の整備・維持を十分に行ってはくれません。そうなれば、そこは市場のプレイヤーである企業がその整備・維持を担わずして誰が担っていくのか、という問題があります。1億総貧困化のトレンドの中で、企業の内部留保が過去最大を記録するという現状を見れば、そのような意見も正論であるといえるでしょう。

 しかし、もう少し現実的な視点でみてみましょう。例えば、派遣切りに遭った非正規労働者が当該企業に対して凄まじい憎悪を抱く、というような問題です。まさに「反ブランディング」です。もちろん現状では使い捨てにされる労働者の規模はそれほど大きくはないために、売上げへの悪影響はないのかもしれません。つまり、使い捨てとして調達される労働者と、実際に自社製品を買ってくれる購買者が異なる限りは、ブランド・エクイティは毀損されないといえるのかもしれません。

 一方で非正規労働者の拡大がいまのままのペースで進むと、使い捨てとして調達される労働者と自社の購買者が重複していく構造となっていくでしょう。その場合のブランドはどのように維持できるのでしょうか。また、どのような「売れる仕組み」たるマーケティングを展開すればよいのでしょうか。

 ひとつの方向性としては、二極化する社会階層、つまり客数は極端に少ないが客単価は稼げる「お金持ち」を相手に商売をする戦略と、客数は多いが客単価は絶望的なまでに低い「貧困層」を相手に商売する戦略とに大きく分かれていくのでしょう。現在まさにデフレブラック型ビジネスや貧困ビジネスが拡大していることからも分かるとおり、コモディティ商品であればあるほど、これまでの事業規模を求めていけば、おのずと貧困層へターゲットをシフトせざるを得ないのかもしれません。

 その場合、使い捨てとして調達される労働者と実購買者が重複してくる潮流を鑑みると、社会への憤懣の充満ならびに大企業への恨みが渦巻いていくことは避けられず、ブランド・エクイティの構築どころか維持そのものすら困難になるでしょう。そのような迫りくるシナリオにおいて、ロックフェラー的な意味での「富の分配機能」がとりわけ大企業の生存にとって重要な戦略課題となってくると思われます。


 ※利他性マーケティングの基本的な考え方については、以下のコラムもぜひご参照ください

<環境新聞社・エシカル日本「利他性マーケティング①」>
http://ethicaljp.com/blog/2016/06/21/100

<クロスラボ研究員コラム「利他性マーケティング第1回」>
a href="https://www.cross-m.co.jp/column/lab/rita_marcketing/20151215


参考文献

  • ・雨宮処凛, 萱野稔人, 赤木智弘, 阿部彩, 池上正樹, 加藤順子(2016)『下流中年 一億総貧困化の行方』SB新書。
  • ・鈴木宏昭(2016)『教養としての認知科学』東京大学出版会。
  • ・デイヴィッド・ロックフェラー(2007)『ロックフェラー回顧録』新潮社。
  • ・日本財団子どもの貧困対策チーム(2016)『徹底調査 子供の貧困が日本を滅ぼす 社会的損失40兆円の衝撃』文春新書。
  • ・藤田孝典(2015)『下流老人 一億総老後崩壊の衝撃』朝日新書。
  • ・藤田孝典(2016)『続・下流老人 一億総疲弊社会の到来』朝日新書。
  • ・マーサ・スタウト(2012)『良心をもたない人たち』草思社文庫。
(株)クロス・マーケティンググループ クロスラボ 主席研究員 水師 裕 (すいし ゆたか)

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