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- グローバルコラム
ジャカルタの発展と変化
2015 / 12 / 08
1976年、私は大学のゼミ研修旅行で、17世紀初頭から日本の長崎、平戸との交易を通じて関係のあったバタビア(ジャガタラ)、現在のジャカルタの地を踏んだ。これを機に、私はインドネシアの歴史、文化、人々に魅せられていった。
現在のジャカルタが抱える問題
インドネシアの首都であり、特別州であるジャカルタはジャワ島北西に位置し、現在約1300万人の人口を抱え、世界で9番目に人口密度の高い都市となっている。1870年に6万5000人だった人口は1961年290万、1971年455万人、2000年834万人、2010年に958万人に膨らみ続けており、交通や住宅のインフラ整備が追いつかず、今日なお深刻な都市問題を抱えている。ジャカルタの由来
ジャカルタの発展を概観する
オランダ領東インド時代は一次産品(強制栽培によるコーヒー、甘蔗〔かんしゃ=さとうきび〕など)の世界市場への輸出向け生産が主だったが、1929年以降天然ゴム、石油採掘に移行。インドネシア独立後の1957年以降、オランダ系企業接収後経済の基幹部門を国営企業が掌握し、初代大統領スカルノによる「指導される経済」が始動。スカルノ失脚後の1967年、第2代大統領スハルトは経済開発優先、外資導入方を制定し、開発路線まっしぐら。外国資本、国内資本の大半が首都ジャカルタにとその近郊地域に集中するようになる。1971~79年の国内総生産の平均成長率は7.6%であった。それまで輸出の大半を占めていた農林漁業が原油、石油製品に移り、石油輸出による外貨準備で貿易を拡大。
ジャカルタの変化
1976年の初訪問から今日に至るジャカルタの様相を振り返る。当時は日本からジャカルタへの直行便はなく、香港経由でジャカルタ市内のハリム・プルダナ・クスマ空港(軍と共用)に着陸。ジャカルタ郊外のスカルノ・ハッタ国際空港は1985年に開港し、それに伴い空港と市内を結ぶ高速道路が敷設された。当時自動車はまだ高値の花で少なく、市内をスイスイ移動でき、1日5、6カ所の観光名所を回れたが、近年では2カ所行ければ上出来だ。現在ジャカルタには1日に700万人が流入しており、200万台の自動車の通行によって道路は慢性の渋滞だ。ちなみに自動車の年間販売台数は100万台超。以前は空港~市内への交通手段は車のチャーターのみで、空港には白タクの客引きがたむろしていた。1999年に行き先別規定料金の空港タクシー制度が開始され、メーター付きタクシーの利用可能になったのは2007年以降だ。
1970年代ジャカルタの大型ホテルは日本の賠償金で建てられたホテルインドネシア(現ホテルインドネシア・ケンピンスキー)や、ヒルトンホテル、マンダリンホテル、シャヒッドジャヤなどに限られていたが、80年代に入ると建設ラッシュが始まり、市内では常に建設工事が行われていた。それまで大型店舗と言えば、サリナデパートだけだったが、次々とショッピングセンター、モールが開店。官公庁、銀行、民間会社も新社屋の建設、建て替えに拍車がかかった。ジャカルタは35年間で驚異的に変わり、まだ変わりつつある。